2006年12月14日木曜日

自殺は悪ではないけれど…

この日曜日はなぜか気分的に腐っていたので、布団にもぐりこみテレビを見ていました。

テレビを見るといえば、NHKです。
いろんな不祥事がありますが、それでもすべての放送局の中でクオリティの高い番組を制作してくれています。

そのとき見ていたものは、『自殺』についての討論番組。これはETVワイドの再放送でした。ちなみに番組のタイトルは、『ETVワイド・ともに生きる《とまらない自殺 わたしたちにできること》』でした。

この番組を見ていていろいろと思うことはあったのですが、番組の中でかなり印象に残った言葉がありました。
自殺により奥さんを亡くした旦那さんが、生前奥さんが呟いた言葉を紹介していました。

『死ぬ自由まで奪われるのは辛い』

正確な表現は忘れてしまいましたが、この言葉にはハッとさせられました。
私自身、今まで生きてきた中で「死にたい」なんて思わなかったことなんてありません。胃潰瘍で立てないくらい痛みが酷かったときなんて、ほんとうに「誰か殺してくれ」なんて思ったもんです。しかし、そのような言葉を口にしてしまうと、だいたい誰かに怒られてしまいます。“死への願望”の程度の差はあれど、世間一般にある『自殺=悪』という基準はおかしいと思います。
自殺を望む人々はすでにその時点で、かなり苦しみ、多くの精神的自由を奪われています。そして、彼らに残された数少ない自由の中に『自殺』というものが存在するのだと思います。もちろん、それは誰にだってある自由なのですが、様々な理由で死に向かう願望を抱いている人々にとっては、『自殺』という、「自らの命を終わらせられる自由」は真に現実味を帯びています。

だから、「死んではいけない」という言葉は、彼らがなぜそう思うのかを聞く意志を示さず、単に「死ぬな」ということを一方的に押し付けてるだけのような印象を相手に与える以外のなにものでもないような気がします。

では、どうすればいいのか?

私は自分が口下手だからということもありますが、相手に死なないことを諭すよりも、なぜ死のうとしているのかを聞く方が大事なのではないかと思います。自決の手段として様々なものがありますが、自殺という行為は時として彼らを死に追いつめた人間に対する、彼らなりの最後の抵抗であることもあります。たとえば、何かの反対運動の極みとして、全身にガソリンを振り掛け焼身自殺する人もいるのです。こういった強いメッセージを持った自殺という行為は、その矛先にある人間にとって甚大な心理的ダメージを与えることが可能です。

いじめで自殺した子供たちの中にも、そういった最後の抵抗を示したものもきっとあるに違いません。
彼らが欲しかったのは「死んではいけない」という、すべての悩みを知ったかような大人たちのありきたりの言葉ではなく、彼らの言葉をまっすぐに受け止めてくれる“誰か”なのだと思います。でも、周りにいる多くの人はその“誰か”になることができない。否、なろうとすることを避けている。それは彼らの苦しみを少しでも背負い込むことが嫌だからなのか、それが格好悪いことだからなのか、はたまた、自分もまたいじめのターゲットにされる恐怖からなのか、その“誰か”になろうとしない。

そもそも、日本人は一般に“出る杭を打つ”傾向のある国民である。
皆がそうだとは言わないけれども、その手の傾向を持つ教育を受けているのは間違いない。横並びであることが安心なのだ。自分のまわりを見てみれば気づくように、他人と同じように振る舞っていなければ後ろ指を指されるとか、ご近所から蔑まれないようにするために、周りに合わせてブランドものの布団を干してないか?高級車でなければ、子供の迎えに行くことができないか?かのように、横並びであることが安心なのである。だから、学校の中でもその理屈は同じで、“出てしまった杭”に関わると、自分にはロクなことが起きないから彼らに対するいじめを見て見ぬ振りをする。

こんなの当たり前のことだ。


たとえ君が彼らの苦しみを聞いたからって、
それで君が彼らと同じようにいじめにあうようになったって、
それが永遠に続くことはないし、
君にはその苦しみを分かち合える彼らがいる。
逃げることは悪いことじゃない。
無理をして嫌な思いをする必要もない。
自分が楽しいことをすればいい。
それが生きるってことだ。


長く拙い文章ですいませんでした。

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