2007年10月23日火曜日

書評:『考える日々』

私はその昔、哲学者になりたかった時期があった。

しかし、親を含め、多くの人から

「哲学ではメシは食えないからやめとけ」

と言われた。

いま、思い返すとそれはその通りだと思ってしまう…。
なかなか哲学ではメシは食えないのだ。

しかし、『考える日々』の著者である池田晶子氏はどっこい哲学でメシを食っている。



これを読んでいて、ふと思った。

「哲学者とはなんと理屈っぽい生き物なのか…!!」

ということ。
かねてより私は、「人間」という語に、いかなる意味も見出せたことがない。いやむしろ、人が語「人間」に与えている過剰もしくは不明瞭な意味、それが常に不審であったために、未だに考え続けていると言ってもいい。(『考える日々III』より)
こういう好戦的な文章を書くのが哲学なのか?と、私はふと思ってしまった。いや、これを好戦的と取るか否かは読み手次第なのであるけれど、この理詰めの考え方に私はつい辟易してしまった。別の言い方をすれば、ただ単に揚げ足を取っている、というふうに私は受け止めた。

そもそも、
かねてより私は、「人間」という語に、いかなる意味も見出せたことがない。
なんてわけがない。それでは、この池田女史は生まれたときから聡明な哲学的思想を持っていたのか?人間というものは、所詮、人間だろう?私は素直にそう思う。

しかし、そう言いながらも彼女の言っていることも分かる。

「人間らしく」とか「人間的に」とか「人間として」とかいう場合、それは「人間」という言葉が勝手に「優しさ」だとか「思慮深い」だとか「分別のある」だとかいう意味を持ってしまう。したがって、「人間」という言葉は本当に不明瞭な言葉であり、その使い方によってはどうとでも取れるようなあやふやな感じが筆者は許せないのだろう。それは以下のくだりで明らかである。
「感情豊か」の意では、肯定的にこの語を用いていた人が、自身の感情的な振舞については、「人間ですからねえ」と逃げを打つ。時と場合によってどうとでもなる、この恣意性が、気に入らない。
この考え方には私も賛同する。
「人間だから」って言って、物事を収められては困る場合があるからだ。

そもそも、「人間として」という場合の「人間」と「人間だから」の「人間」というのは、同語であって同義ではない。

私はこのブログであんまり事件ものなどを取り上げたくはないのだけれど、光市の母子殺害事件について池田女史を真似ると以下のような言い方になる。

犯人である元少年は「人間ではない」と。そもそも、「人間として」つまり「倫理的に」あるまじき行為をしたのだから、彼は「人間ではない」。しかし、もう一方の「人間」という言葉を使用すれば、彼は「人間だから」ああいうことをした。つまり、人間とは「過ちを犯すもの」というふうに捉えている。これが池田女史の言う、“この恣意性が、気に入らない”ということである。

私はあんまり理屈っぽいのは好きではないけれども、言葉ひとつをとってみても、深く考えるべきだなということをこの本から学んだような気がする。

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